コラム・豆知識

等彌神社 4つの謎

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等彌神社

等彌神社(とみじんじゃ)は『神武天皇聖跡鳥見山中霊畤顕彰碑』があり神武天皇と関わりがあることは前回の記事でお話しました。
これについては若干解説が必要かと思います。
「霊畤」とは「大嘗祭(だいじょうさい)」の行われた場所で、そしてこの大嘗祭というのが帝が誕生するための儀式を表します。

「神武東征伝」に従えば、日向の地(今の宮崎)から大和の地に苦難の中、辿り着いた「神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)」は、国家平定を完成させました。
その後「神武天皇」として橿原市の畝傍山周辺に都を置かれ初代帝として即位され、桜井の地でその為の儀式である、大嘗祭を行ったのです。
そしてその地こそ、この等彌神社の周辺だと考えられます。

どうです?
これって日本国国家創立の為の最も基本的な大ページェントだと言えるでしょう。

さてこの等彌神社には多くの謎があります。今回はその中から4つを取り上げてみたいと思います。

なぜ、橿原の宮があるのに、現「等彌神社」で儀式を行ったのか

神武天皇

神倭伊波礼琵古命は橿原の宮で即位されました。
でも大嘗祭は現「等彌神社」で行いました。
なぜでしょう?

実は「神武東征伝」には大和の地に入る直前、宇陀の地におられたことが記されています。
今もそうですが、ここから大和の地に入る為には、国道166号を行く必要があるのですが、そのどん突きにあるのが等彌神社のある「鳥見山」です。

鳥見山参道入口

鳥見山参道入口

最近の台風の際、鳥見山の霊畤に繋がる山道がかなり傷んでいるようで今は危ないかも知れませんが、等彌神社からのルートは実に爽快な登山道で、頂上からの見晴らしの良さはまた格別で、大和三山をはじめ、奈良盆地が一望できます。
この場所に遭遇した一行は、この山の頂上から宿敵「長髄彦(ながすねひこ)」の陣営などの情報をとったことは疑いようはありません。
そしてその時、この場所が様々な意味で霊畤の地に相応しいことを実感したのだと思います。

想像してみてください。
2000年以上前、大和の地に着いた「神倭伊波礼琵古命」が自然の要塞のような鳥見山に登り情勢を把握して、戦いに勝利します。
しかしいくら橿原の宮に即位したと言っても、まだまだ政情は安定していません。
このような平地ですから、何時攻めて来られるかは読み切れません。

ですので橿原の宮に即位をしておいて、重要な軍事施設や兵などは、大和三山を見渡せる鳥見山に配置したことが容易に類推できます。
ここなら安心して儀式も行えます。
慣れ親しんだ鳥見の地を霊畤の地として「大嘗祭」を行ったのは、元々「祝いの祝宴」の意味であったからだと言えるでしょう。
「嘗」の字は、今の「響」にあたるものだという説も納得ができます。

そして体制がある程度整った時点で、安心して橿原の宮に移ったのだと考えられます。

なぜ、この辺りの人は「とみじんじゃ」ではなく「とうやじんじゃ」と発音するのか

とみじんじゃ? とうやじんじゃ?

次に発音の問題です。等彌神社は「とみ」と発音しますが、この周辺の住民の方は「とーや」と発音しています。
これは日本の旧い慣習に由来します。

2000年前と言うと「音」から「文字」へ、情報伝達の方法が変わってきていたと考えられます。
つまり意味のある音に大陸から伝わった漢字を充てて情報を残しました。
そこで今でいう駄洒落のような時期を経験したのです。例えば「よろしく」というのを「夜露死苦」というように。

そもそも「等彌神社」の「とみ」も、帝が都を見渡した「遠見」から来たのか、遠くを見れる「鳶(とんび)」がなまったものかもしれません。

いずれにしても周辺の住民は、「とみじんじゃ」と直接名前を口にするのを礼に失すると考え、わざと「とーや」と言い換えたのかも知れません。
これは珍しい事ではありません。
日本では相手の名前を口にする事はとても礼を失する行為と考えられてきたからです。

境内から発掘された「八咫烏(やたがらす)」はなぜ2本足?

等彌神社の八咫烏

3つめは「八咫烏(やたがらす)」についてです。
実は等彌神社の境内からは不思議な土偶が出土しています。
何とも言えず近未来的な装束をしていて、まるで敬礼をしているようなもので、これは「神倭伊波礼琵古命」を救った「八咫烏」だと伝えられています。

体の部分は最新SF映画に登場する宇宙飛行士のようにも見えます。
特にバックルに見えるベルト(?)部分のデザインは秀逸に見えます。
また人とは似つかない顔の部分はかなり特徴的です。
確かにカラスなのでしょうが、ではこの形状が単に象徴なのか、兜か何かなのか、または入れ墨なのか分かりません。

しかしこれを観た人が最初に疑問に思う事。それは「その足が2本」だということです。

神武天皇東征之図

安達吟光作 「神武天皇東征之図」(Wikipediaより

「八咫烏」とは神倭伊波礼琵古命(神武天皇)が大和の地に向かうとき、天津神が遣わした道案内だと記されています。
もちろん本当のカラスとは考えられず、「人」か「集団」の存在を表したものなのでしょう。
(いくらネイティブ・アメリカンがイーグルの恰好をしていても彼らは生物的に鷹ではありませんよね)

では何故3本足なのでしょうか。
杖のようなものを持っていたから?或いはベルトの端を長く垂れ下げていたから?

実は古事記、日本書紀のどこをひっくり返してみても、八咫烏が3本足とは書かれていません
最初に3本足の記述があったのは、平安時代中期の「倭名類聚抄」なのですが、この記述もこれを書いた人が、平安時代では一般教養となっていた「三足烏(さんそくう)」と混同したからだと思われます。
その後、様々な説が出てきましたが、いずれもそんな考え方がその時代にあったことは証明しますが、古事記、日本書紀に表された八咫烏との接点についてはなんの証明もありません。

この「八咫烏の土偶」はかなり奇抜ですが、私は古代の種族の衣装に似ているような印象を受けます。
八咫烏は今でいう岡山県辺りから「神倭伊波礼琵古命」と同行していたことからして、大陸との繋がりも考えられなくはないですが、今となってはどのような可能性も類推の域をでません。

しかし、最も大きな謎は“いったい何のためにこれがあるのか”と言う点です。
マスコットにしては出土例が少なすぎますし、身代わりとしても同様です。
建物の大黒柱に使う人柱の代わりだったという珍説もありますが、これが意外と否定できないのかもと、妙に納得できたりもします。

なぜこれほど立派な神社なのに、入口は小さいのか

等彌神社

そして最後の謎。
それはこれほど歴史的に立派な神社にも関わらず、外観が小さい点について述べましょう。

実は今たまたま台風の大雨の影響で「霊畤の儀式」のあった頂上までは行きにくく、文献でも何度か社が崩れている記述があります。
そこで麓に移築した記載がある為、元々最初は小さな社のようなものが頂上付近にあったのだと考えます。

そして様々な理由で-その中には、社が崩れたり、火災に見舞われたりもしたでしょうが-麓へ麓へと移築されていったと考えるのが順当であると感じます。
そう考えると今の拝殿の位置が、妙にしっくりくるのです。

 

以上、如何でしたでしょうか。謎に包まれた等彌神社。

おそらくは真実の姿は私達の創造を遥かに凌駕する者なのかも知れません。
しかし少なくとも、日本の皇室の基を築いたものと深く関わってきたことには言を待ちません。
一度、この謎の神社に訪れてみてはいかがでしょう。
きっと御満足頂けることと思います。

  • この記事を書いた人

中島聡

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